【公式】大分八幡宮 : 由緒と歴史

【公式】大分八幡宮 : 由緒と歴史

御祭神と創祀

御祭神

応神天皇おうじんてんのう八幡大神やはたのおおかみ)、 神功皇后じんぐうこうごう玉依姫命たまよりひめのみこと

創祀

神亀3年(726)

例祭

春祭:4月の卯の日
秋祭:9月最終土曜日・日曜日(放生会)

祭典

11月6日19時(大神宮祭・夜神楽祭)

由緒

神亀3年(726)の創建と伝えられる大分八幡宮は、神功皇后の所縁の地で、筥崎宮の元宮とされています。御祭神は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。

神功皇后は、三韓征伐から帰国した後、粕屋の宇美邑にて応神天皇を御出産遊ばされ、その翌年の春、粕屋と嘉穂の郡境にある大口嶽(大口嶽の乳呑坂)を越えて当地に至ります。神功皇后は、当地にて引率していた軍士を解隊し、それぞれの故郷に返します。その大分から大分と称されるようになったと伝えられています。

御祭神である応神天皇(八幡大神)の神霊は、欽明天皇32年(571)に豊前国宇佐郡に所在する馬城嶽(御許山)に出現したと伝えられ、神亀2年(725)に現在の宇佐神宮の鎮座地である小倉山社へ遷座します。その翌年の神亀3年(726)、御神託により豊前地方と穂波地方、太宰府を行き来する拠点であり、大分の由緒ある当地に鎮西第一といわれる壮麗な社殿、穂浪宮(大分宮)が造営されたのが大分八幡宮の創始とされています。

宇佐宮御託宣集の延喜21年(802)6月1日の件にて『我宇佐宮より穂浪の大分宮は本宮也』と記され、箱崎の松原への遷座の神託があり、3年後の延長元年(923)に遷御したことから筥崎宮の元宮とされています。その遷座の前からの御神体で、神功皇后が腰裳に挟んでいたとされる「くしみ玉」は、大分八幡宮にて奉斎されていたとされています。

『宇佐宮御託宣集』

延喜二十一年六月一日、筥崎神託す。

我が宇佐宮よりは、穂浪大分宮は我の本宮なり。去る二十日辰時を以て、来り着く。今日巳時を以て、爰に来る所なり。其の故は、香椎宮は我が母堂、住吉宮は我が親父なり。我が幼少の当初、志賀嶋を点住して、これに跡づく所なり。夷類を征伐せしむる後、吾出生の時、号を崇めらるべし。我が先の世に、三箇所に居住せしむべき由、所々に有りと雖も、先の世に天下国土を鎮護し始めし時に、戒定恵の筥を納め置く。埋むる所は、彼の父母両所の敷地の中間に、松一本を殖うる、巳に其の璽なり。適生土の上へ、彼の所に居住せしめんと欲ふなりてへり。

私に云く。大分宮は我が本宮とは、欽明天皇の御代、御示現の前、御霊行の時なり。

代々朝廷の御崇敬も篤く、神事祭礼の折には太宰府庄庁の官人が参詣して執り行われ、承平5年(935)の「天慶の乱」の際には、朱雀天皇の勅願により平将門、藤原純友らの追討祈願のため九州に宇佐八幡五所別宮(第二肥前千栗宮・第三肥後藤崎宮・第四薩摩新田宮・第五大隅正八幡宮)が造立されますが、大分八幡宮は、その第一とされました。

中世も朝廷からの崇敬厚く、焼亡を受けての治暦3年(1071)の再建では筥崎宮と同等の規模の本殿であった記録されています。応仁の乱以降、衰微しますが、天正5年(1577)に秋月種実によって再建。この再建の時、現社殿の後方、丘の頂上の嶽宮から現在地に遷座しました。しかし、秋月種実が日向へ移封されたことで神領を失い再び衰微。江戸期に入り、福岡藩の関与と共に鳥居などの寄進も相次ぎ、享保6年(1721)8月15日には途絶えていた放生会も復活。享保8年(1723)には流鏑馬、その翌年の享保9年(1724)には村人が石清水八幡宮で習得してきた獅子舞が奉納され、神事祭事が整えられることとなり、篤く崇敬されています。